ミニ講話 宮司のいい話
NO.173  目的と目標
     以前私は、青年会の若い神主さん達と富士登山をしました。五合目までバスで行き五合目から歩いて山頂を目指しました。

     私は体重が百キロ近くありますので、誰からも頂上は無理でしょうと思われていました。しかし、私が富士山登山へ行こうと言った言い出しっぺであり、当時青年会の会長をしていましたので、途中下山では格好がつきません。何とか頂上まで行きたいとそれだけを目的に、大好きなお酒を二十一日間断って願かけをしたり、運動をしてダイエットを心掛けたりして準備をしました。そして念願の頂上に無事たどり着いたのです。私の目的は見事に果たされました。

     しかし、考えてみると、全く余裕のない、ただ頂上に登らなければならないという必死の思いだけでした。ですから途中の景色も目に入らない、仲間との会話もうわの空、頂上だけがすべてで途中の過程がスッポリ抜けてしまっているのです。目的達成のためにだけ全力を投球していた気がします。

     もし山頂まで登りつめることができなかったら、私は自分自身のふがいなさを自責したでしょう。たとえ九合目まで登ったとしても頂上へ行けなかった落胆で、富士登山そのものを無意味に感じたと思うのです。百パーセント以外は全部〇パーセント。成功か失敗かのどちらかしか考えられなかったような気がします。今考えてみると何故もっと富士登山を味わってこれなかったのかなーと残念に思っています。

     人生においても同じことが言えると思うのです。何かの目的に向かって突進して行く、それ以外のことは何も見えない。ひたすら目的に向かって突き進む。もし目的が果たせなかったら何も残らない。それまでの努力も積み重ねられた経験もすべての価値が〇となってしまう。このような経験は人生において往々にしてあるように思います。成功か失敗か、経過はどうでもよく、結果を重要視してしまう。しかし、結果を重要視するなら、やがては手段を選ばなくなります。

     お金が目的、お金がすべてと思ってしまえば自分の心を見失ってしまいます。他人の思いやりも、情けも感じられなくなってしまいます。ましてや他人を思いやる気持ちなど全く持てなくなってしまいます。これは目的を重要視するあまり、結果に捕らわれてしまう現象だと思うのです。

     それよりも、私は目的を目的とせず、目的を目標程度に考えてはどうかと思います。目的は目の的と書きます。的は目当て、ねらいの意味ですから、目指すものは限られてしまいます。しかし、目標は目の印、目印の意味ですので、方向づけと考えることができます。人生を目当てのために生きるのではなく、方向づけに向かって生きていこう程度に考えたならば、もっともっと人生に余裕ができてくると思うのです。私のように「何がなんでも富士山の頂上に登るんだ」ではなく、富士山の頂上を目指して「たとえ頂上にたどり着かなくてもいいんだ、一歩一歩を味わって頂上を目指して歩くことに価値があるんだ」と思ったならば、移り行く景色にも心を留め、折に触れた仲間との会話にも情の交わりを味わうことができたと思うのです。

     目的のために生きるのではなく、目的は単なる方向づけとして遥か彼方の目標に向かって歩く。「経過」を大切に考える生き方を求めた方が、人生をより良く楽しめるような気がします。「結果」はすべて神様にお任せする。そう思えばとても人生が楽しくなってくるような気がしませんか。

     金太郎飴はどこで切られても金太郎の笑顔が出てきます。我々の人生もどこで神様に切られるか分かりません。目的を達成することが大切ではなく、目標に向かって一所懸命進むことが大切だと思うのです。そう思えはどこで人生を切られても、金太郎飴のように笑顔の自分が現れてくると思うのです。


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